奇想の天才絵師 若冲 [pro-0282]

奇想の天才絵師 若冲 [pro-0282]

販売価格: 1,490円(税別)

(税込価格: 1,639円)

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商品詳細

教室掲示用 A2サイズ   594×420 mm
フルカラー版ポスター   若冲 Genius artist Jakuchu

奇想の天才絵師 若冲
この学習ポスターは、若冲の代表的な作品絵画の一覧表です   
伊藤 若冲(いとう じゃくちゅう、正徳6年2月8日(1716年3月1日) - 寛政12年9月10日(1800年10月27日))は、近世日本の画家です。
江戸時代中期の京にて活躍した絵師でした。写実と想像を巧みに融合させた「奇想の画家 として曾我蕭白、長沢芦雪とともに知られています。続諸家人物志』(青柳文蔵)には、若冲が狩野派の画家・大岡春卜に師事した記述があり、若冲の墓碑銘にも狩野派に学んだとされています。現存作品の作風から狩野派の影響を探すのはむつかしいのですが、一部について、狩野派の絵画の類似点があります。若冲は狩野派の画法を取得後、その画法を捨て、宋元画(特に濃彩の花鳥画)を学び、模写に励んだ。さらに、模写に飽いた若冲はその画法も捨て、実物写生に移行しました。実物写生は、当時の本草学の流行にみられる実証主義的気運の影響を受けていました。明代や清代の民間画工の影響、特に南蘋派の画僧・鶴亭との類似がいわれています。山水画・人物画の作品は少ないですが、若冲が尊敬していた売茶翁の肖像画は何度も描いています。濃彩の花鳥画、特に鶏の絵が得意でした。 美しい色彩と綿密な描写が特徴です代表作の「動植綵絵30幅は、多種多様の動植物がさまざまな色彩と形を織り成す、華麗な作品です。綿密な写生に基づき、いまの現代にも通じる幻想的な雰囲気があります。また、当時の最高品質の画絹や絵具を惜しみなく使用したため、200年以上たった現在でも保存状態が良く、褪色も少ないです。「動植綵絵は、若冲が相国寺に寄進しましたが、のち皇室御物となり、現在は宮内庁が管理しています。
明和4年(1767年)動植綵絵と同時期に、若冲はそれとは対照的な木版画「乗興舟 木拓帖「玄圃瑤華 (明和5年)、木拓帖「素絢帖 (明和5年)、揃物「花鳥版画 (明和8年)を制作しています。これらの作品は木版を用い正面摺りで、拓本を取る手法に似て「拓版画 と呼ばれています。通常の木版画と逆に、下絵を裏返しせずそのまま版木に当て、地の部分ではなく描線部分を彫って凹ませ、彫り終えた版面に料紙を乗せ表から墨を付けます。その結果、彫った図様が紙に白く残り、地は墨が載った深い黒の陰画のような画面が出来ます。また、拓版画の黒地を模してさらに合羽摺で着色を施した「著色花鳥版画 も6図伝わっています。
生前の若冲は、人気をほこっていましたが、明治以降 忘れられていました。 大正15年(昭和元年、1926年)、秋山光夫によって本格的な研究がなされ、昭和45年(1970年)に辻惟雄の 奇想の系譜 が出版されて注目を浴びました。 1990年代後半以降その超絶した技巧や奇抜な構成などが再評価され、アメリカ人収集家ジョー・プライスのコレクションによってその知名度と人気を高めていきました。


生涯
正徳6年(1716年)、京・錦小路にあった青物問屋「枡屋」の長男として生を受けました。問屋の仕事は小売ではなく、生産者や仲買・小売の商人に場所を提供して販売させ、彼らの関係を調整しつつ売場の使用料を徴収する流通業者です。桝屋は多数の商人を管轄していたらしく、商人たちから場所代を取れば十分な利益を上げることが出来たといいます。
23歳のとき、父・源左衛門の死去に伴い、4代目枡屋(伊藤)源左衛門を襲名します。「若冲」の号は、禅の師であった相国寺の禅僧・大典顕常あるいは月海元照から与えられたと推定される居士号であり、『老子』45章の「大盈若冲(冲は「虚しい、空っぽ」の意)」から採られました。意味は「大いに充実しているものは、空っぽのようにみえる」です。大典の書き遺した記録「藤景和画記」によると、若冲という人物は絵を描くこと以外、世間の雑事には全く興味を示さなかったといいます。商売には熱心でなく、芸事もせず、酒も嗜まず、生涯、妻も娶らなかったのです。商人時代、若冲は家業を放棄して2年間丹波の山奥に隠棲してしまい、その間、山師が枡源の資産を狙って暗躍し、青物売り3千人が迷惑したという逸話が残ります。

絵師として自立
齢40となった宝暦5年(1755年)には、家督を3歳下の弟・白歳(宗巌)に譲り、名も「茂右衛門」と改め、はやばやと隠居します。宝暦8年(1758年)頃から「動植綵絵」を描き始め、翌年10月、鹿苑寺大書院障壁画を制作、明和元年(1764年)には金刀比羅宮奥書院襖絵を描きます。明和2年(1765年)、枡屋の跡取りにしようと考えていた末弟・宗寂が死去した年、「動植綵絵」(全30幅のうちの)24幅と「釈迦三尊図」3幅を相国寺に寄進します。このとき若冲は死後のことを考えて、屋敷一箇所を高倉四条上ル問屋町に譲渡し、その代わり、問屋町が若冲の命日に供養料として青銅3貫文を相国寺に納めるよう契約しました。

町年寄若冲の活躍 ─錦市場再開をめぐって─
事の発端は明和8年(1771年)12月、京都東町奉行所から帯屋町と貝屋町に奉行所へ出頭するよう通達が来たことに始まります。奉行所に赴くと、奉行所から市場の営業を認められた時期や、「棒銭」の使い道、百姓たちの商売許可の有無、などを返答するよう命じられます。早速書類を作成し提出したが、免許状は宝暦5年(1755年)の大火で焼失してしまっては証拠にならないとして、翌年正月15日に帯屋町・貝屋町・中魚屋町・西魚屋町の営業停止の裁定が下されます。若冲は奉行所と交渉を続けるなか、商売敵であった五条通の青物問屋が錦市場を閉鎖に追い込もうと謀っていることを知ります。
そんな折、五条問屋町の明石家半次郎なる人物から「錦市場は五条から役人達に残らず根回しされているから、再開は無理だろう。それでは余りに気の毒だから、帯屋町だけは五条から借り請ける形で営業するなら、私が世話をしよう」と持ちかけられます。明らかな抱き込み工作でしたが、若冲は帯屋町だけが市立てするような行為は他町に対して不実の至りである、という理由で拒否します。
その後の交渉で、2月末に冥加金を年16枚上納することを条件に一旦市場は再開されるものの、五条問屋町が冥加金銀30枚を上納する代わりに錦高倉市場を差し止めて欲しいと請願したことを受けて、7月に再び営業停止になってしまいます。東町奉行所に内意を尋ねると、帯屋町一町だけなら許可されるかもしれないと、先の明石屋と同じ内容でした。

しかし、若冲はあくまで四町での錦市場存続を模索します。そんな折、病気を患った若冲が医名の高い原洲菴という人物に薬を買いに行った時、「このまま市場を止められたままでは、町年寄として末代まで汚名を残すことになり、また数千人の人々が難儀する」等と胸の内を打ち明けると、江戸勘定所の役人・中井清太郎に知恵を仰ぐのを薦められます。諸方に内々に承合うと確かに適任らしいと
いう感触を掴んだため、中井に仲介を依頼します。中井の打開策は、市場に関わる農民たちに市場が営業停止になると年貢が納められず、生活も苦しくなると御上に訴えさせ、そして御蔵がある壬生村に出訴するようまず説得したら良い、というものでした。若冲はその助言通りに壬生村の庄屋に趣旨を話すと、庄屋も五条では商売が難しいからと賛成する一方、壬生村は100石ほどの小村だから
もっと大きな村からも出訴すれば効果があるのではないか、と助言しました。中井もこの意見に賛成したため、若冲は更に中堂寺や西九条村にも掛け合って市場存続の嘆願運動を起こさせました。しかし事態は好転せず、同8月若冲は町年寄を辞任します。これは、いざという時は農民に天領の住人が含まれているのを口実に幕府評定所への出願も覚悟し、町全体まで連座しないように
「ヒラ」の町人になって活動するためでした。その後も周辺の村々に参加を呼びかけ、京都町奉行所や近隣の天領を支配する小堀数馬役所らと交渉を重ねます。途中四町の中でも、若冲の帯屋町と弟が町年寄を勤める中魚屋町の2町と、貝屋町・西魚屋町の間では、農民の売立が占める割合が前者に比べ後者では大きくなかったらしく市場再開への対応に微妙な違いがあり、内外とも調整に難儀する
一幕もありました。最終的に3年後の安永3年(1774年)8月29日、年に銀35枚の冥加金を納める条件でついに市場は公認されました。こうした事情のためか、確実にこの時期に描かれたことが解る作品は殆どありません。一方、安永2年(1773年)に萬福寺住職伯珣照浩から印可を得て、「革叟」の号と僧衣を貰っています。

晩年
天明8年(1788年)の天明の大火で、自宅を焼失します。大火で窮乏したためか、豊中の西福寺や伏見の海宝寺で大作の障壁画を手がけ、相国寺との永代供養の契約を解除します。晩年は伏見深草の石峯寺に隠遁、義妹(末弟宗寂の妻)心寂と暮らしました。そのため若冲の墓は、上京相国寺の生前墓の寿蔵と、石峯寺の2箇所にあります。若冲は85歳の長寿を全うするまでに多くの名作を残したが、晩年、石峯寺の五百羅漢石像や天井画などの制作に力を注ぎ、没後、同寺に土葬されました。のちに枡源7代目の清房が、若冲の遺言に従い、墓の横に筆形の石碑を立て、貫名海屋が碑文を書いています。宝蔵寺を菩提寺とする伊藤家は幕末の頃に没落し、慶応3年(1867年)、家屋敷を売り渡して大阪へ去りました。

作風
『続諸家人物志』(青柳文蔵)には、若冲が狩野派の画家・大岡春卜に師事したとの記述があり、大典による若冲の墓碑銘にも狩野派に学んだとあります。一方で木村蒹葭堂は、若冲は、鶴沢探山の門人で生写(しょううつし)を得意とした青木言明の門弟だったと記す(『諸国庶物志』)が、それを裏付ける証拠は見つかっていません。現存作品の作風から狩野派の影響を探すのは困難でありますが、一部の図様について、狩野派の絵画や絵本との類似点が指摘されています。

若冲は狩野派の画法に通じた後、その画法を捨て、宋元画(特に濃彩の花鳥画)に学び、模写に励んだとしています。さらに、模写に飽いた若冲はその画法をも捨て、実物写生に移行したと伝えられています。実物写生への移行は、当時の本草学の流行にみられる実証主義的気運の高まりの影響も受けていると言われます。また、大典が読書を通じて宋代の画家の写生の実践を知り、それを若冲に伝えたとも言われます。ほかにも、美術史家の研究により、明代や清代の民間画工の影響、特に南蘋派の画僧・鶴亭との類似が指摘されています。両者に交流があったという史料は見つかっていませんが、作品から互いに意識しあう関係だったと推測されます。

山水画・人物画の作品は少ないですが、若冲が尊敬していた売茶翁の肖像画だけは何度も描いています。濃彩の花鳥画、特に鶏の絵を得意としていました。美しい色彩と綿密な描写を特徴とするが、写生画とは言い難い、若冲独特の感覚で捉えられた色彩・形態が「写生された物」を通して展開されています。

代表作の「動植綵絵」30幅は、多種多様の動植物がさまざまな色彩と形態のアラベスクを織り成す、華麗な作品であります。綿密な写生に基づきながら、その画面にはどこか近代のシュルレアリスムにも通じる幻想的な雰囲気が漂います。また、当時の最高品質の画絹や絵具を惜しみなく使用したため、200年以上たった現在でも保存状態が良く、褪色も少ないです。「動植綵絵」は、若冲が相国寺に寄進したものですが、のち皇室御物となり、現在は宮内庁が管理しています。

明和4年(1767年)「動植綵絵」と同時期に、若冲はそれとは対照的な木版画「乗興舟」木拓帖「玄圃瑤華」(明和5年)、木拓帖「素絢帖」(明和5年)、揃物「花鳥版画」(明和8年)を制作しています。これらの作品は木版を用いた正面摺りで、拓本を取る手法に似ていることから「拓版画」と呼ばれています。通常の木版画と逆に、下絵を裏返しせずそのまま版木に当て、地の部分ではなく描線部分を彫って凹ませ、彫り終えた版面に料紙を乗せ表から墨を付けています。結果、彫った図様が紙に白く残り、地は墨が載った深い黒の陰画のような画面が出来上がります。また、拓版画の黒地を模してさらに合羽摺で着色を施した「著色花鳥版画」(平木浮世絵財団蔵)も6図伝わっています。