大日本沿海輿地全図(伊能図) [pro-0143]

大日本沿海輿地全図(伊能図) [pro-0143]

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商品詳細

学習塾必需品の

教室掲載用大日本伊能図


です
大サイズですので 毎日 見ることで興味がわき知識が豊かになります

大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)は、江戸時代後期の測量家伊能忠敬が
中心となって作製した日本全土の実測地図である。「伊能図(いのうず)」ともいわれている
完成は文政4年(1821年)
それまで日本で作成されてきた諸地図と較べ、技法の点から見て飛躍的に進歩した精密・詳細・
正確な地図であり、当時の西洋の地図にもほぼ遜色のない水準であった。
A2サイズ 420mmx594mm 









大日本沿海輿地全図
「大日本沿海輿地全図」の「輿地」とは大地(地球)もしくは世界のことです。「沿海輿地全図」の名の通り、国防上の事業として行われたため、本図は海岸線の描写が中心であり、内陸部に関しては空白も少なくないです。 大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)は、江戸時代後期の測量家伊能忠敬が中心となって作製した日本全土の実測地図である。「伊能図(いのうず)」や「伊能大図」ともいわれます。完成は文政4年(1821年)。

作製の経緯
本図は、寛政12年(1800年)から文化13年(1816年)にかけて江戸幕府の事業として測量・作成が行われたものです。上総国出身で商人だった伊能忠敬(1745年 - 1818年)は隠居後に学問を本格的に開始し、江戸にて幕府天文方の高橋至時(1764年 - 1804年)に師事し、測量・天体観測などについて修めていました。当時、地球の緯度1度に相当する子午線弧長について、30里、32里あるいは25里などと諸説があったなか、高橋・伊能師弟はこれを正確に測定するという目標を有していました。そこで高橋は幕府に伊能を推薦し、当時ロシア南下の脅威に備えて海岸線防備を増強する必要があった蝦夷地(現在の北海道)の測量を兼ねて、その往復の北関東・東北地方を測量することで子午線1度の測定を行わせるよう願い出ました。こうして幕府の許可を得た伊能は寛政12年(1800年)、私財を投じて第1次測量として蝦夷地および東北・北関東の測量を開始しました。各地の測量には幕府の許可を要しましたが、幕府は測量を許可したばかりか全国各藩に伊能への協力を命じました。これは、その時点で西洋列強の艦船が頻繁に日本近海に現れるようになっており、国防上の観点から幕府も全国沿岸地図を必要とし、伊能の事業を有益と判断したためです。

蝦夷地測量の翌年の享和元年(1801年)には、本州東海岸、東北西海岸、東海・北陸地方沿岸の測量を完了。文化元年(1804年)には、それまでの測量の結果をいったんまとめ、大図69枚・中図3枚・小図1枚からなる東日本の地図を幕府に提出、将軍徳川家斉の上覧に供しました。なお、子午線1度の長さについては28.2里(約110.74キロメートル)と算出し、今日の計測値と較べても極めて誤差の小さい数値となっています。従来の日本地図とは異なり、実測による正確・精密な地図の質の高さに幕府上層部も驚愕し、伊能の測量事業への支援をいっそう強化することとなりました。伊能は正式に幕府天文方の役人として雇用され、翌文化2年(1805年)の第5次測量からは、幕府直轄事業として行われることとなりました。

以後、伊能らは文化13年(1816年)の第10次測量まで(第9次測量のみ伊能は不参加)日本全土を歩測しました。また蝦夷地北部宗谷附近に関しては、測量術の弟子である間宮林蔵(1780年 - 1844年)の観測結果を採り入れています。伊能は文化15年(1818年)に完成を待たずに死去しますが、その喪は伏せられ、師・高橋至時の子である高橋景保(1785年 - 1829年)が仕上げ作業を監督し、文政4年7月10日(1821年8月7日)「大日本沿海輿地全図」を完成しました。そして同図は全国に渡る緯度・測量結果を収録した「大日本沿海実測録」とともに幕府若年寄に提出されました。

地図としての特徴
測量結果を基に、江戸で伊能らが作図作業を行いました。すべて手書きの彩色地図で、利用上の便宜のため3種類の縮尺の地図が作製されました。

大図 1里=3寸6分(縮尺1/36,000、全214枚)
最も詳細に描かれた地図。北は宗谷岬、南は屋久島、東は国後島、西は五島列島までの海岸線および内陸河川の形状をつぶさに描きました。その他、地図内には国郡名、境界線、領主名、村落、寺社名、河川名、磯・浜の種類、田畑、塩田なども記入し、海岸線のみならず、詳細な地図情報が記載されています。なお、大図には緯線・経線は記入されていません。

中図 1里=6分(縮尺1/216,000、全8枚)
縮尺の都合上、大図と較べて地名などの記載内容は若干、簡略化されていますが、代わりに緯線・経線が引かれています。京都西三条改暦所を通る子午線を本初子午線として経度の基準とし、実測値を元に経度・緯度1度ごとに直交する度線を引いてあります。ただし、伊能は地球を球体として考えていたため、緯度・経度ともに若干の誤差が生じています。

小図 1里=3分(縮尺1/432,000、全3枚)
利用しやすさを求め、中図よりさらに半分の縮尺で製図し、全国を3枚に収めた図。地名その他の記載は簡略化してあります

シーボルト事件
幕府に提出された伊能図は、江戸城紅葉山文庫に秘蔵され、一般の目に触れることはありませんでした。あまりに詳細な地図のため、国防上の問題から幕府が流布を禁じたためです。文政11年(1828年)紅葉山文庫を所管する書物奉行でもあった高橋景保が、長崎オランダ商館付の医師であるシーボルト(1796年 - 1866年)に禁制品である伊能図を贈ったことが露顕し、高橋景保は逮捕され、翌年3月に獄死しました(シーボルト事件)。
日本を強制退去となったシーボルトは帰国後の1840年に、伊能図をオランダでメルカトル図法に修正した「日本人の原図および天文観測に基づいての日本国図」を刊行している。その精度の高さにより、当時のヨーロッパ識者の一部に日本の測量技術の高さが認識されることになります。

幕末の伊能図
開国後の文久元年(1861年)、イギリス海軍の測量艦アクテオン号が、「攘夷派をあまり刺激しない方が良い」との幕府の勧告を無視して日本沿岸の測量を強行しようとした際、たまたま幕府役人が所有していた伊能小図の写しを見て、その優秀さに驚き、測量計画を中止して幕府からその写しを入手することで引き下がったという。なお、このときの伊能図の写しを元に1863年にイギリスで「日本と朝鮮近傍の沿海図」として刊行され、日本に逆輸入され、勝海舟(1823年 - 1899年)の手によって慶応3年(1867年)に「大日本国沿海略図」として木版刊行されました。これにより伊能図を秘匿する意味がなくなったため、同年には幕府開成所からも伊能小図を元にした「官板実測日本地図」が発行され、小図のみとはいえようやく一般の目に供されるようになりました。